2010/06/21

眼差し

「解説:松木」って誰が喜んで聞いているのだろう。居酒屋のカウンターにマイクが置かれているような感覚になって、不快だ。解説ではなく、アナのほうだけども、Jスポの倉敷さんが懐かしい。

matlabをいじりだした。結構プログラミングしているのは楽しい。ちゃんとグラフが出ると、おー、と声が出てしまう。


荒木経惟の写真を青山で見てきた。彼のネコの写真だった。「センチメンタルな旅 春の旅」という題目だった。それは文章でしか知らない「センチメンタルな旅 冬の旅」を思い出させるもので、きっとネコが死ぬんだろうな、と推測するには十分なものだった。

僕は写真の云々は良く分らない。優れた写真家がどういうものだとか、そういうことは一切わからない。ただただ、段々と老い、力を失っていくネコへの眼差し。愛する者が死にゆく姿を撮っていくという事は、その死や悲しみへの直視。それとは引き換えに、被写体からのこちら側への眼差しが失われていくのが非常に空しい。彼女はもう私を見ることは無いのだ、ということを痛烈に感じる。

愛別離苦は、その人がいなくなってしまうからというよりも、その人からの自分への働きかけや相互干渉が無くなってしまうからだと思う。一方的に思っているだけなら、いてもいなくてもある意味一緒だからだ。当たり前だが、そういう相互関係こそが、人が愛と呼ぶものについては肝要なものだと思う。視線はその象徴だ。


死は無味無臭なので、気が付くとそばにあったり、自分に襲いかかってきたりする。だから普通早過ぎる準備はしないものだが、果たして自分がそれに耐えられるかは良く分らない。人生良く分らない事ばかり。

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