2011/10/15

ミスコンの話 part2

だいぶ前にちらっと触れたICUのミスコン騒動だが結局中止になったようだ。僕は「べき」論は政府やそれに準ずるもの以外に適応されるのかよく分らず、例えばこのケースだと「大学は○○すべきだ」という言明がありうるのか怪しいと思っている人間なので、結局開催すべきかどうかというのは分らないのだけども、結局のところ大学の一つの競争する主体であって、校風がミスコンを許さなかったという事なんだろう。ICUは独自性が強い大学と聞く。もしこれを許せば、その独自性を失い競争力も落ちる、と。

しかし流れてくる意見を見るとやはりミスコンに対する認識の仕方にズレがあるのが原因だと思うんだよな。「ミスコンは偏ったランキングだ」というのはだれもが納得する事実だと思う。しかしそれの開催が「参加者と企画者の自由を保障する」と考えるのか「抑圧につながる」のかは、「所詮ミスコンなんて無数にあるランキングの仕方だ」と捉えているか、「ランキングはいかん!」もしくは「ミスコンは社会の価値観を決める支配的なランキングたりうる」と考えているか、と言った所。僕は前者の立場だけども。

それと、僕はここにある一段落が意味が良く分らない。

現在の抑圧的な社会構造とは、たとえば、性別を2つにわけることを当然とし、片一方をもう片方よりも劣位に置く構造であ り、同調を要請してくる規範の圧力などです。「料理」が今回の企画において審査基準に採用されたことは、こうした規範圧力の一例であるといえます。さらに は、資本が学問や教育の場に著しく参画してくる産学協同の圧力も存在します。たとえば、ミスコン企画の審査基準には協賛企業の商品宣伝プレゼンテーション 能力も含まれていました。また、今回の企画案において使われた「ミスキャンパス」という名称は、特定企業の登録商標です。「ミスキャンパス」を登録商標と する企業が今回の企画に関わっていたのかはわかりません。しかし、ICU祭という場が企業活動の場へと変貌しかねない状況にあったことは事実でしょう。こ の資本主義社会において私たちは性差別や異性愛主義を強制されながら生きているということを忘れてはなりません。
性差別や異性愛主義を強制されていると感じるのは資本主義社会のせいなのだろうか。もっと素朴な、どんな社会にもある人の噂話だったり、常識の形成が元なんじゃないんだろうか。逆に言えば資本主義以前にはそれが無かったのか。

圧力という言葉もよく分らないが、僕らの言葉でいうと需要に相当するものなのだろうか。だとすると需要のない社会なんぞあり得ないし人によって需要が違っても良い。だから何を需要しても許される自由な社会にしましょうよ、そしたら例えば同性愛も自由でしょう、という事だとざっくりと思うんだけども。



専門でやってる奴にこのあたりの話を聞きたいな。

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